宮 本 の 江 戸 彼 岸 桜

Mikuriya
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信濃の一本桜本  遠藤同姓の墓があるあたりは、【しゃぐじ】と呼ばれており、古い信仰と関係が深いようです。同姓の墓にある桜の老木が、”宮本の江戸彼岸桜”として「信濃の一本桜 」という写真集に収録されています。一方、大町市社地区の歴史について書かれた「やしろ」という本には、ソメイヨシノと記載されています。かなりの古木なので、ソメイヨシノの生存限界よりも古いと推定されますが、この桜の分類について検証と、考察をしてみました。

 まず、樹齢400年推定法について、大町市観光課(担当した職員は異動していないらしく、山岳博物館に聞いてくれた)によると、幹の太さが5mを超えるかが基準で、宮本の桜は5mを超えていたので400年と推定したとの事でした (2019.3月聞き取り)。

 次に樹種について調べてみると、400年生存するソメイヨシノはなさそうですし、江戸彼岸桜の葉は楕円形で、長辺が5-10cm、春の彼岸ごろ、ソメイヨシノより早く花を咲かせるとの事です。確かに、周辺のソメイヨシノよりは早めに開花しています。葉より先に花が咲き、花は薄紅色から白で花弁は5枚で一重。この点も、合致しています。萼(がく)の下部に球状のふくらみがあるのが特徴で、蜜腺はわかりにくいが、葉の縁の基部から5㎜ほど上の位置にあるようです。

 そこで、開花時期の花の写真と葉の蜜腺を調べてみました。写真のように江戸彼岸桜の花と蜜腺の特徴が確認できたことから、樹種は江戸彼岸桜でまちがいないと考えられました。
萼下の膨らみ蜜腺  また、400年を示す別の物証はないか調べてみました。墓のレコードとして手元にあり、判読可能な木札(位牌)を調べたところ、確認できる最も古い位牌は元和8年(1622年)でした。この故人の生きた時代は戦国から江戸初期であろう事から、幹の太さからの生物的推定結果:樹齢400年と矛盾しないと推察されました。恐らく、墓地の片隅に植えられた桜の幼木が、遠藤一族とともに、何代もの時を経て老木となったのでしょう。

 大町市内(高根町)には樹齢300年と推定される桜があり、市の文化財指定を受けています。市観光課によると、宮本の桜は個人の所有なので文化財指定対象外とするが、文化財同等以上の価値ある古木との事、是非大切にしてほしいとの助言もいただきました。

参考文献
文献1:宮本の江戸彼岸桜「信濃の一本桜 」 信濃毎日新聞社 2012年3月2日初版 著者:大貫茂
文献2:やしろ 編者 社誌編集委員会 信毎書籍印刷株式会社 昭和五十年二月一日(限定版、非売品)
文献3:wikipedia エドヒガン項目
文献4:http://elm3.web.fc2.com/top/ha-no-kaisetu/edohigan.html
文献5:https://ameblo.jp/kawasemi2030/entry-12016660086.html

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桜の老木がつないだアメリカと日本

Jon-san  2019年に日本の遠藤同姓は、素敵な出会いをしました。その昔、アメリカに移民として渡った一人の遠藤さん、その日系3世と4世がEndow-sanとして訪ねてきてくれました。事の始まりは、アメリカの遠藤さん家族が日本を旅行するにあたり、自分たちのルーツを訪ねたいと、旅行社にリクエストした所から始まったようです。旅行者の担当の方が、親切にも断片の情報を探って、どうも大町市社宮本ではないかと当りを付けてくれたようです。そこで探し当てたのが一枚の桜の写真で、そこを目印に訪ねてきたら、我々の墓地に証拠となる彼らの祖先の名前が刻まれていたという次第です。全くの偶然だったのですが、日本の遠藤一族とアメリカの遠藤ファミリーが時を経て祖先を同じくする同姓の桜のもとで再会し、新しい絆が生まれました。不思議な縁が呼び寄せたとしか言いようがありませんが、桜の老木に感謝しています。太平洋を越えたアメリカへの架け橋がe-メールでできつつあります。一昔前なら航空便しか手がなかったのですが、一瞬で写真も文章も届けられます。便利な世の中になりました(2020.12月25日)。



Endow/遠藤同姓_その後(秘密の部屋)

Endo secret

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江戸彼岸桜のある【しゃぐじ】

しゃぐじ
写真 宮本の【しゃぐじ】と呼ばれる木々に囲まれた丘状の場所。樹齢400年の【宮本の江戸彼岸桜】は、ここから100mほど南に位置する。
 遠藤同姓の墓近くには、宮本部落の古くからの住民墓が集まった小高い丘状の地があり、【しゃぐじ】と呼ばれています。墓の集まっている小高い場所は、4-5世紀の古墳であるとも言われていますが、定かではありません。しかし、この地に、古くから部落に住む家々の7割ほどの墓が集まっているのは何か意味があるのではないでしょうか。

 素朴な疑問に駆られてネット検索をすると、【しゃぐじ】は、「ミシャグジ」、「ミサグジ」などと呼ばれ、社宮司、作神、石神(石神井の地名も関連する説もある)、山護神などの漢字が当てられています。詳しくは、Wikipediaなどの情報を参照してもらう事として、「ミ」は神を敬った「御」だと考えられますので、【しゃぐじ】と【みしゃぐじ】を同義として、その概要を宮本の【しゃぐじ】の視点から見てみたいと思います。
 まず、【しゃぐじ】が祀られる古樹の根元には祠があり、神体として石棒が納められているのが典型的な【しゃぐじ】のあり方だという今井野菊さんの観察(日本原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究)があります。昭和9年(1934年)に書かれた柳田國男著の「地名と歴史」によれば、社宮司【しゃぐじ】という神信仰は、伊勢から紀州の一部を西止まりとして東にしかない分布を示すと述べています。また、氏は信州の諏訪が根源で、今は衰えてしまった土地の神の信仰ではないかとも推察しています。【しゃぐじ】は、当初は主に石や樹木を依代とする神であったでしょうし、地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと、今では解釈されています。
 また、【しゃぐじ】の神体となっている石棒や石皿のほとんどが縄文中期のものであり(信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡から【しゃぐじ】の神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している)、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことから、この信仰が縄文時代から存在していたとする説もあります。
 分布の中心とされる諏訪には、現在諏訪大社がありますが、諏訪大社には御本殿や御神体がありません。かわりに、守屋山と周りの自然そのものが御神体という考えがあり、この自然崇拝あるいは精霊崇拝こそ【しゃぐじ】神信仰そのものといえ、諏訪大社が日本で最古の神社の一つと言われるところからも、他の神社と一線を画して古き信仰が維持されていると考えます。
 【しゃぐじ】は、ある種の精霊崇拝であり、全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるといわれていますので、縄文時代までさかのぼるかもしれない古い信仰の可能性はあります。ここ信州安曇野には、数多くの道祖神が知られていますが、諏訪からの【しゃぐじ】信仰の延長線上にあると考えられます。宮本部落にも道祖神はいくつか祀られていますし、道祖神と関係の深い【才の神】地区があります。【塞の神(さいのかみ 境界の神)というのは、邪霊の侵入を防ぐ神→さえぎる神→さえの神→サイノカミ(賽の神)となったといわれ、村への入り口で邪霊から部落を守る道祖神と同源ともいわれます。宮本の【才の神】地区は、仁科神明宮への主参道である宮け沢(坂)に沿っており、ここは宮本の【しゃぐじ】と呼ばれる墓の近くでもあります。その昔は、部落への入り口を守った【才の神】を氏神とする人々が住んでいたのではないでしょうか。
 【しゃぐじ】の実態については様々な説があげられていますが、解明されたとは言い難い所です。しかし、おぼろげながら【しゃぐじ】の全体像として、1)漢字が当てられる以前から口伝として存在していた言葉であり、2)古木などが生い茂る自然の崇拝と深く関連して、3)石棒・石皿などに象徴される生殖・生命の誕生が神秘で荘厳な現象として素朴に敬う時代から続く古い信仰だった事は容易に想像されます。古事記や日本書紀に登場するアマテラス率いる八百万の神々の神話以前に、日本の人々が崇拝した素朴な【しゃぐじ】信仰は、縄文の昔までさかのぼるのかもしれませんね。

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